2011年11月26日
成長するということ 中屋の響き:風の音
突然ですが、今50を過ぎて、いつの間にこんなに歳を食ってしまったのかとふと思う時があります。子供のころは40歳の人も50歳の人も区別はつきませんでした。
それに10代のころも40代の中年の人達の考えてることなど想像もつきませんでした。
ところが、実際は50代の今、はっきり言って小学生の頃と同じ心で物事を感じ考えている気がします。歳をとったからといって別人になった訳ではないということです。たぶん、60になっても、70になっても同じなのでしょう。
これって当たり前の話なのですが、でも若い頃は歳をとっていくと別人になるような錯覚がありました。実際はそんなことはなくて、幼い頃の心は変わらずあって、経験でいろいろな心が芽生え束になって集まっている状態です。
たぶん生まれたときは、人格は1つだったのではと思います。そしてどんどん増えていくのです。家での自分、幼稚園での自分、そして学校に入り学校での自分、就職して仕事上の自分が加わり、そうしてたくさんの人格の総合体が今の自分自身になる。束の中心には幼い頃の心が相変わらずあります。
悪い事をした人格もあるし、いい事をした人格もあります。これは立場によって増えるわけで、父親としてとか、会社の責任者としてとか。私の場合、教員としての人格もあったと思います。
人格が増えるといろいろな考え方ができるようになるということです。子供のときのわがままな自分を抑える大人の自分が広い視野を与えてくれます。逆に弱い自分が足を引っ張ることもあるでしょう。
いい人格が増えれば、いい成長をしたということになるんじゃないだろうか。たぶん私の場合は日本にいた時の人格に加え、オーストラリアで新たな人格が増えた気がします。これが環境が人を育てるということなのです。
いい環境にいれば、いい成長が出来ます。そして人間は自分が心地よい環境にいたがるものです。実は自分にとって心地よい環境が、運命の分かれ道ということになのかも。これも考え方一つですが。
それに10代のころも40代の中年の人達の考えてることなど想像もつきませんでした。
ところが、実際は50代の今、はっきり言って小学生の頃と同じ心で物事を感じ考えている気がします。歳をとったからといって別人になった訳ではないということです。たぶん、60になっても、70になっても同じなのでしょう。
これって当たり前の話なのですが、でも若い頃は歳をとっていくと別人になるような錯覚がありました。実際はそんなことはなくて、幼い頃の心は変わらずあって、経験でいろいろな心が芽生え束になって集まっている状態です。
たぶん生まれたときは、人格は1つだったのではと思います。そしてどんどん増えていくのです。家での自分、幼稚園での自分、そして学校に入り学校での自分、就職して仕事上の自分が加わり、そうしてたくさんの人格の総合体が今の自分自身になる。束の中心には幼い頃の心が相変わらずあります。
悪い事をした人格もあるし、いい事をした人格もあります。これは立場によって増えるわけで、父親としてとか、会社の責任者としてとか。私の場合、教員としての人格もあったと思います。
人格が増えるといろいろな考え方ができるようになるということです。子供のときのわがままな自分を抑える大人の自分が広い視野を与えてくれます。逆に弱い自分が足を引っ張ることもあるでしょう。
いい人格が増えれば、いい成長をしたということになるんじゃないだろうか。たぶん私の場合は日本にいた時の人格に加え、オーストラリアで新たな人格が増えた気がします。これが環境が人を育てるということなのです。
いい環境にいれば、いい成長が出来ます。そして人間は自分が心地よい環境にいたがるものです。実は自分にとって心地よい環境が、運命の分かれ道ということになのかも。これも考え方一つですが。
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