2008年08月21日
見抜いて信じ抜く
私のテニスの先生といえる人は2人います。1人はここでいつも紹介しているオーストラリアのビンス・バークレー氏です。もう1人は日本にいます。平野三樹氏です。
先日、平野先生のテニス合宿に行ってきました。久しぶりに長時間に渡って平野先生のレッスンを受けることが出来て、自分のテニス向けの思考回路がフル稼働したような気がします。
60歳半ばを過ぎる先生は、その小柄な身体で当時では珍しい厚いグリップでトップスピンでぐりぐり言わせてプレーされていたそうです。当時イースタングリップの選手ばかりが活躍するなか一際異色を放っていたのです。
正確にはわかりませんが背丈も150センチに届いてない気がします。その小柄な身体から繰り広げられる鮮やかで多彩、そして重厚なショットの数々、国宝ものです。
私は先生が「この方法で出来る」と言ったら、どんなに自分であり得ないと一瞬思ったとしても絶対に否定しません。なぜなら、その凛としたコーチの姿の後ろにある計り知れない泥臭い努力が想像できるからです。
自分の思いつきの疑問など先生の果てしない裏付けの1%の価値もないと思えます。昔地球が丸いなんてあり得ないなどと言っていたようにアホな反論になってしまう気がするのです。それほど信頼を置いています。
先生との出会いは16年前、すっかり自分勝手にテニスしていた自分のテニスをしっかりシツケてくれました。感謝しています。
上達の条件を1つ加えるならば、いい物を見極める目だと思います。私がテニスの師と仰ぐのは日本では平野三樹氏、オーストラリアではビンスバークレー氏です。この2人が本物だと判断し得たことが、私の誇りです。
今、私は2人から得た物を融合し、化学反応させて新しい自分独自のスタイルを創っています。2人の師のテニス観は裏と表くらい違う気がしますが、根っこの方で何かつながっている気がします。そして、私も根っこの方ではしっかりつながっていたいと思っています。
合宿の食事時、平野先生は以前お土産に買ってきたビンスバークレーアカデミーのTシャツを着て、バックプリントを指しながら「ビンスバークレーさんもよろしく」とにこにこして宣伝してくれました。なぜか、その瞬間とっても不思議な気がしました。
いいと思ったら心底信じることです。中途半端じゃ意味がありません。その意味でいい物を見抜く力って大事ですよ。
先日、平野先生のテニス合宿に行ってきました。久しぶりに長時間に渡って平野先生のレッスンを受けることが出来て、自分のテニス向けの思考回路がフル稼働したような気がします。
60歳半ばを過ぎる先生は、その小柄な身体で当時では珍しい厚いグリップでトップスピンでぐりぐり言わせてプレーされていたそうです。当時イースタングリップの選手ばかりが活躍するなか一際異色を放っていたのです。
正確にはわかりませんが背丈も150センチに届いてない気がします。その小柄な身体から繰り広げられる鮮やかで多彩、そして重厚なショットの数々、国宝ものです。
私は先生が「この方法で出来る」と言ったら、どんなに自分であり得ないと一瞬思ったとしても絶対に否定しません。なぜなら、その凛としたコーチの姿の後ろにある計り知れない泥臭い努力が想像できるからです。
自分の思いつきの疑問など先生の果てしない裏付けの1%の価値もないと思えます。昔地球が丸いなんてあり得ないなどと言っていたようにアホな反論になってしまう気がするのです。それほど信頼を置いています。
先生との出会いは16年前、すっかり自分勝手にテニスしていた自分のテニスをしっかりシツケてくれました。感謝しています。
上達の条件を1つ加えるならば、いい物を見極める目だと思います。私がテニスの師と仰ぐのは日本では平野三樹氏、オーストラリアではビンスバークレー氏です。この2人が本物だと判断し得たことが、私の誇りです。
今、私は2人から得た物を融合し、化学反応させて新しい自分独自のスタイルを創っています。2人の師のテニス観は裏と表くらい違う気がしますが、根っこの方で何かつながっている気がします。そして、私も根っこの方ではしっかりつながっていたいと思っています。
合宿の食事時、平野先生は以前お土産に買ってきたビンスバークレーアカデミーのTシャツを着て、バックプリントを指しながら「ビンスバークレーさんもよろしく」とにこにこして宣伝してくれました。なぜか、その瞬間とっても不思議な気がしました。
いいと思ったら心底信じることです。中途半端じゃ意味がありません。その意味でいい物を見抜く力って大事ですよ。
2008年08月08日
特訓は意味がない
ある時期に集中して訓練することを特訓といいますが、私は短期間に急激に上達をすることは無理だと思っています。コーチとしては遠回りをしないように導くことは出来ますが、基本時に近道はないと思っています。
皆さんも学生時代に、試験の前夜にまさに一夜漬け勉強をした経験のある方は多いと思います。試験が終わるときれいさっぱり忘れてしまいましたよね。
テニスでも夢中になっているある時期、とにかくがむしゃらにたくさんテニスをやっている人がいます。上手くなりたい気持ちはわかりますが、どんなに焦っても前進のスピードは変わりません。時間が経てばわかることです。
インターネットの広告にも、10分で上手くなるとか、瞬間的に上手くなるとか、甘いキャッチコーピーが踊ってますが、全て後から考えれば普通の一歩に過ぎないのです。それでもどこかに抜け道があるはずだと思ってしまう気持ちはよくわかります。
例えば上達までに10段の階段を登らなければならないとします。2段飛ばし、3段飛ばしはありません。どんなに上手くなった気になっても10段のうちの平凡な1段に過ぎないわけで、要するに10段をどんな気持ちで登るかの問題なのです。
私は上手くなった気になってもらいながら、正しい方向に導きたいという意識でコーチをしています。でも、なかには別に正しくなくなっていいから、簡単うまくなる方法を教えて欲しいと言う人がいます。
原理原則からどれだけ外れようが、時間をかけずに勝てるようになればいいというわけです。それでも余分な過程を省いたとしてもはずせない部分はある
のでそこは譲れません。逆にそこのはずせない部分を知っているかいないかが、コーチとしての生命線であるとも思っているので。
得てしてそこのはずせない部分の習得が一番時間がかかるもので、そこを何とかストレスなく通過できるようにレッスンをしたいと思っています。でも、正直、時間はかかります。そこを特訓という方法では乗り切ることはできないのです。はっきり言って特訓は意味がありません。量は少しでも長く続けること、積み重ねることを強くお薦めします。
なぜなら、簡単に身につけたものは簡単にダメになりますから。
皆さんも学生時代に、試験の前夜にまさに一夜漬け勉強をした経験のある方は多いと思います。試験が終わるときれいさっぱり忘れてしまいましたよね。
テニスでも夢中になっているある時期、とにかくがむしゃらにたくさんテニスをやっている人がいます。上手くなりたい気持ちはわかりますが、どんなに焦っても前進のスピードは変わりません。時間が経てばわかることです。
インターネットの広告にも、10分で上手くなるとか、瞬間的に上手くなるとか、甘いキャッチコーピーが踊ってますが、全て後から考えれば普通の一歩に過ぎないのです。それでもどこかに抜け道があるはずだと思ってしまう気持ちはよくわかります。
例えば上達までに10段の階段を登らなければならないとします。2段飛ばし、3段飛ばしはありません。どんなに上手くなった気になっても10段のうちの平凡な1段に過ぎないわけで、要するに10段をどんな気持ちで登るかの問題なのです。
私は上手くなった気になってもらいながら、正しい方向に導きたいという意識でコーチをしています。でも、なかには別に正しくなくなっていいから、簡単うまくなる方法を教えて欲しいと言う人がいます。
原理原則からどれだけ外れようが、時間をかけずに勝てるようになればいいというわけです。それでも余分な過程を省いたとしてもはずせない部分はある
のでそこは譲れません。逆にそこのはずせない部分を知っているかいないかが、コーチとしての生命線であるとも思っているので。
得てしてそこのはずせない部分の習得が一番時間がかかるもので、そこを何とかストレスなく通過できるようにレッスンをしたいと思っています。でも、正直、時間はかかります。そこを特訓という方法では乗り切ることはできないのです。はっきり言って特訓は意味がありません。量は少しでも長く続けること、積み重ねることを強くお薦めします。
なぜなら、簡単に身につけたものは簡単にダメになりますから。