2009年02月11日
勝者のフットワーク塾 中屋の響き 鐘の音
原田武一。私が尊敬する選手の一人です。全米3位、世界7位、戦前に日本の男子が世界の強豪と称された時代があったのです。弾まないボールを擦り切れるまで打って練習していた時代が日本男子テニスの黄金時代だったとは不思議なものです。
武一の唱える「ノーグリップ・ノーフォーム」説は共感出来ます。全てのグリップで全ての球種を打ちこなせるというのが究極の理想だと私も考えます。もちろんグリップに特性があることが大きなネックとなりますが、その理想に少しでも近づくことが本当の意味でボールを操る技術となるのではないか、また、それが全てのグリップの可能性を最大限に引き出すということになるのだとも思います。
私がオーストラリアに渡った理由の1つは、普遍的なテニスの原理を知るためです。幸いシドニーには世界のトップクラスの選手が集まるビッグトーナメントがあり、朝から晩まで飽きるほど彼らのプレーを見る機会がありました。
そこで気が付いたことは、我々が試合で見ているのは彼らの技術のほんの一部で、研ぎ澄まされた一級品の技術だけを試合の場で目にしているのだということです。
「個性」と「基本」についてよくレッスンで話をしますが、技術は「個性」と「基本」で構成されています。彼らの「個性」は計り知れないものがあります。1年に1度使うかどうかという技術、例えばコンチネンタルグリップでトップスピンを打つなどということは基本からは外れていることですが、彼らの個性的な技術の1つとして時に垣間見ることが出来ます。
この彼らの持つ多種多様な「個性」はかたちに捕らわれない「ノーグリップ・ノーフォーム」説につながると考えています。それこそ、普遍的なテニスの原理に基づくテニスなのかも知れません。
一方「ノーグリップ・ノーフォーム」の近づいた時に大切なことは、逆に「基本」を知っているということのような気がするのです。ウェスタングリップでボレーをするにしても、それしか出来ないという人とそれも出来ることの1つという人では全然違います。幅広い個性と基本に基づいた技術を備えて初めてバランスのとれたテニスになるのでしょう。
本当の原理を知れば「ノーグリップ・ノーフォーム」が実現する気がします。
粋で豪快な反面ナイーブな男の生き様を描いた「フォレストヒルズを翔けた男」テニスの風雲児・原田武一物語 小林公子著。一度読んで見て下さい。
勝者のフットワーク塾 中屋
武一の唱える「ノーグリップ・ノーフォーム」説は共感出来ます。全てのグリップで全ての球種を打ちこなせるというのが究極の理想だと私も考えます。もちろんグリップに特性があることが大きなネックとなりますが、その理想に少しでも近づくことが本当の意味でボールを操る技術となるのではないか、また、それが全てのグリップの可能性を最大限に引き出すということになるのだとも思います。
私がオーストラリアに渡った理由の1つは、普遍的なテニスの原理を知るためです。幸いシドニーには世界のトップクラスの選手が集まるビッグトーナメントがあり、朝から晩まで飽きるほど彼らのプレーを見る機会がありました。
そこで気が付いたことは、我々が試合で見ているのは彼らの技術のほんの一部で、研ぎ澄まされた一級品の技術だけを試合の場で目にしているのだということです。
「個性」と「基本」についてよくレッスンで話をしますが、技術は「個性」と「基本」で構成されています。彼らの「個性」は計り知れないものがあります。1年に1度使うかどうかという技術、例えばコンチネンタルグリップでトップスピンを打つなどということは基本からは外れていることですが、彼らの個性的な技術の1つとして時に垣間見ることが出来ます。
この彼らの持つ多種多様な「個性」はかたちに捕らわれない「ノーグリップ・ノーフォーム」説につながると考えています。それこそ、普遍的なテニスの原理に基づくテニスなのかも知れません。
一方「ノーグリップ・ノーフォーム」の近づいた時に大切なことは、逆に「基本」を知っているということのような気がするのです。ウェスタングリップでボレーをするにしても、それしか出来ないという人とそれも出来ることの1つという人では全然違います。幅広い個性と基本に基づいた技術を備えて初めてバランスのとれたテニスになるのでしょう。
本当の原理を知れば「ノーグリップ・ノーフォーム」が実現する気がします。
粋で豪快な反面ナイーブな男の生き様を描いた「フォレストヒルズを翔けた男」テニスの風雲児・原田武一物語 小林公子著。一度読んで見て下さい。
勝者のフットワーク塾 中屋