2010年03月09日
中屋の響き 日本のスポーツ指導体制
バンクーバーオリンピックの盛り上がりも落ち着いてようだ。多くの人が関心を持ったビックイベントだったと思う。連日、マスコミはオリンピック関連のニュースを流し、人々は関心の度合いは日を追うごとに増していった。
こういうイベントで熱が上がれば上がるほど、いつも思うことがある。これほどスポーツに熱狂し、期待する人が多いにもかかわらず、社会のスポーツへの取り組み方が後進国的すぎるということだ。
もちろん予算的な整備も必要だと思うが、予算を使う組織の仕組みがどうもすっきりしないし、各競技の予算は計上されていても、本当に選手育成のために直接的に使われているのか疑問である。
私も高校のテニス部顧問の先生に頼まれてレッスンに行くことがあるが、公立高校では臨時に予算を計上しての依頼になることが多い。なかにはポケットマネーでレッスンフィーを負担される先生も少なくない。いずれも、通常の料金は請求しづらいので別料金体系で対応しているが、それでも十分練習を見ることができないジレンマがある。
スポーツの育成時期としては最も重要な時期になる中高校生の指導体制が全く出来ていないのが実情である。実質の指導的立場にいる学校の先生に指導者としての訓練の機会がほとんどなく、先生の善意に寄りかかっている状態だ。
生徒は部活指導に熱心な先生のいる学校に行けば練習のモチベーションを保つことが出来るが、そうでない場合は難しい状況になる。学校の先生を責めるつもりは毛頭ない。私も18年も教壇に立った元公立高校の教員である。部活指導以外の重要な仕事が山ほどあることは理解しているし、部活指導はリスクが多いだけで、報酬はほとんどない現状は認識しているからだ。
それと、スポーツの指導者としての資格もないのに指導に当たっている事自体、恐ろしい話だ。スポーツ指導者としての訓練を受けてない者が中心となって全国的に、スポーツ選手の育成に携わっていることは異常なことだ。それでいて期待だけは大きいのだ。
何年か前に元ヤクルトの栗山さんの講演を受けた時に、「熱心な素人コーチが選手の才能を潰すことになる」と言っていました。草野球のコーチでも熱心に時間を割いて指導してくれることには頭が下がるのだが、正式なトレーニングを経ずして個人の経験や思いで指導することは返って選手の未来を潰すことになると言っていた。
その通りだと思う。ところが、スポーツ指導者の育成は国民の関心の薄い部分かも知れない。そんな気がする。なぜなら、お金に結びつかないからだ。例えば野球の指導者を育成して、少年野球が強くなっても物づくりと違ってお金に直接結びつくことは考えにくい。用具の消費が多少増えるくらいだろうか。
そもそもお金のことを考えたらスポーツ指導者などやってられないのが現状である。才能のある指導者を育成することに、是非、国として力を向けて欲しい。施設や道具は学校に十分整っているわけで、あとはマンパワーである。
オリンピックやスポーツのビックイベントの毎に日本中湧き上がり、選手の活躍に思いっきり期待し、勇気をもらったとか言いまくっているのだが、この稚拙なスポーツ指導のシステムを日本体育協会、高体連、文科省などの各組織が放置しているのが我慢ならない。選手の努力の成果を商業的に利用しようというマスコミの意図だけが目立つ日本の体質をいつも憂えているのであった。
勝者のフットワーク塾 中屋
こういうイベントで熱が上がれば上がるほど、いつも思うことがある。これほどスポーツに熱狂し、期待する人が多いにもかかわらず、社会のスポーツへの取り組み方が後進国的すぎるということだ。
もちろん予算的な整備も必要だと思うが、予算を使う組織の仕組みがどうもすっきりしないし、各競技の予算は計上されていても、本当に選手育成のために直接的に使われているのか疑問である。
私も高校のテニス部顧問の先生に頼まれてレッスンに行くことがあるが、公立高校では臨時に予算を計上しての依頼になることが多い。なかにはポケットマネーでレッスンフィーを負担される先生も少なくない。いずれも、通常の料金は請求しづらいので別料金体系で対応しているが、それでも十分練習を見ることができないジレンマがある。
スポーツの育成時期としては最も重要な時期になる中高校生の指導体制が全く出来ていないのが実情である。実質の指導的立場にいる学校の先生に指導者としての訓練の機会がほとんどなく、先生の善意に寄りかかっている状態だ。
生徒は部活指導に熱心な先生のいる学校に行けば練習のモチベーションを保つことが出来るが、そうでない場合は難しい状況になる。学校の先生を責めるつもりは毛頭ない。私も18年も教壇に立った元公立高校の教員である。部活指導以外の重要な仕事が山ほどあることは理解しているし、部活指導はリスクが多いだけで、報酬はほとんどない現状は認識しているからだ。
それと、スポーツの指導者としての資格もないのに指導に当たっている事自体、恐ろしい話だ。スポーツ指導者としての訓練を受けてない者が中心となって全国的に、スポーツ選手の育成に携わっていることは異常なことだ。それでいて期待だけは大きいのだ。
何年か前に元ヤクルトの栗山さんの講演を受けた時に、「熱心な素人コーチが選手の才能を潰すことになる」と言っていました。草野球のコーチでも熱心に時間を割いて指導してくれることには頭が下がるのだが、正式なトレーニングを経ずして個人の経験や思いで指導することは返って選手の未来を潰すことになると言っていた。
その通りだと思う。ところが、スポーツ指導者の育成は国民の関心の薄い部分かも知れない。そんな気がする。なぜなら、お金に結びつかないからだ。例えば野球の指導者を育成して、少年野球が強くなっても物づくりと違ってお金に直接結びつくことは考えにくい。用具の消費が多少増えるくらいだろうか。
そもそもお金のことを考えたらスポーツ指導者などやってられないのが現状である。才能のある指導者を育成することに、是非、国として力を向けて欲しい。施設や道具は学校に十分整っているわけで、あとはマンパワーである。
オリンピックやスポーツのビックイベントの毎に日本中湧き上がり、選手の活躍に思いっきり期待し、勇気をもらったとか言いまくっているのだが、この稚拙なスポーツ指導のシステムを日本体育協会、高体連、文科省などの各組織が放置しているのが我慢ならない。選手の努力の成果を商業的に利用しようというマスコミの意図だけが目立つ日本の体質をいつも憂えているのであった。
勝者のフットワーク塾 中屋
「スポーツにもっと予算を」などという意見と実態のギャップはやはり感じるところですね
事業仕分などを見ていても思いますが、文化、芸術、スポーツ、科学技術など緊急度は比較的認知されにくく、重要度が高いものへの予算配分がしにくい状況にあると思います。
国民の支持を受けるためには、今そこにある危機への対応を先鋭化することが政治家の皮膚感覚としてあるのではないでしょうか
予算という政府の機能としての再配分の改革も必要ですが、同じ思いに賛同する人との連携による草の根の取り組みも必要だと思います
日本はあまり寄付の文化がないと言われていますが、その辺りの意識啓発と合わせた政治的運動論の展開も必要だと思います
たまに、草野球の監督が普段、手弁当な上に遠征時に車を運転して事故を起こしてしまう悲しいニュースに心を痛めていましたし、何故そんな状況なのか怒りさえ覚えます。
自分がテニスに熱くなればなるほど、日本の若手選手の育成に興味が出て、微々たる事でも貢献したいと思うようになっています。
何か私に出来ることはないのか・・・当座はどこかの基金にほんの僅かながらでも寄付をしようかと思案中です。
でも・・・どうも歯がゆいんですよね・・・
道路族とかいう政治家がいますが、スポーツ族という政治家がいないとだめですかね。
戦後復興期の力道山の時代から今日まで、日本国民はどれほどスポーツに支えられて来たことか。
選手の強化費、ドイツ274億円、韓国106億円、アメリカ115億円、そして日本は27億円。だそうです。ロシアみたいなこともあるのでお金を出せばいいという問題ではないですが、腰の入れ方が違う気がしますね。
文教族議員はいますけどね。
どうしても、行政的な見方をすれば、
「公平性」の問題と
「部分最適」と「全体最適」の問題が、
頭をよぎります。
「環境保全」と「産業振興」
「スポーツ振興」と「福祉」など
比べようのない価値を比べながら、
予算を再配分するという現実があるのですよね
しかも、予算がついても、
いまひとつ効果のあがらないのは、
どのようにお金を使えばよいか、
知らない人が使っているケースが多いからだと
思いますね。
だから、それをどのようにやれば良いか知っている人
が実績を示し、草の根の動きが、
国の動きにつながるような取り組みがないと
結局、無駄な気がしますね
比べようのない問題は、やはり政治力によるところが大きいのでしょうね。